« coba | Main | wabisabiland pop diary »

April 06, 2014

桜並木の阿波踊り写楽連、木村友祐『イサの氾濫』、黒川創『いつか、この世界で起こっていたこと』、佐々木幹郎『東北を聴く』

2014/4/6 (土)

 午後、八幡山のSさんに誘われ、ご当地のさくら祭りに行ってきた。団地の桜並木を、季節外れの写楽連の阿波踊りが練り歩いて来る。いまの阿波踊りには、練り歩きの踊りだけでなく、見せるための舞台踊りがあることをはじめて知った。
 後で家に帰って徳島の阿波踊りのYouTubeを見てみたら、前夜祭の舞台だけでなく、パレードの踊りがずいぶん多様化している。40年以上前に鳴門市で見たときにくらべ、グルーヴ志向が強まった印象を受ける。「よさこいソーラン」のようにロック的なサウンドを加えるのではなく、従来の鳴り物のリズムを工夫することで、現代的な感覚を出そうとしているのがおもしろい。
 上北沢の桜並木でお団子を食べた後、2年前に改装され、ブロック塀が金属のフェンスに変わった都立松沢病院のまわりを散策した。そしてさくら祭りの会場で年配の有志の方たちが作っていた木製の格安プランターを買って帰った。
 夕方、下北沢のラカーニャで10ストリングス(まれか&じゅんじ)のライヴ。アイルランドのコンサルティーナ奏者コーマック・ベグリーを迎えての楽しいステージだった。早めに終わったので代官山の「山羊に、聞く」で行なわれているミニサーカス隊キャラバン!の「東北6県ろ~る!! んだ! 満開ライブだど~っ!!!!」へ。途中からだったが、原マスミ、中川五郎のライヴ、震災を受けて書かれた小説家木村友祐の『イサの氾濫』の朗読などを聞く。最後はその小説に刺激を受けて生まれた「まづろわぬ民」を白崎映美、伏見蛍、小峰公子、向島ゆり子で。
 

2014/4/5 (金)

 東日本大震災と福島原発事故の後、自分の依って立つ足元について考えることが増えた。阪神大震災のときはそれほどでもなかったから、それ自体、東京に暮らす者の身勝手な反応ではあるが、想像力の欠如に気付いたことだけでも何も感じなかったよりはましと思うことにしよう。とはいえ考えの中身のほうは身も蓋もないほど単純で、いまだにうまく言葉にできないでいる。だから自分の頭で考えたことを言葉にしている人に出会うと、敬意を払わずにいられない。
51lbpfqbvl_aa160_1
 黒川創の『いつか、この世界で起こっていたこと』(新潮社) は、震災と原発事故をふまえて書かれた短編小説集で、6つの短編が収められている。昨年5月に単行本が出てからすでに多くの人に評されているが、最近、仲俣暁生さんがどこかでこの本にふれていたのを見て、おそまきながら読んでみた。
 6つの短編はそれぞれ独立した物語だ。著者の回想をからめたと思われる物語もあれば、旧ユーゴ出身の歌手ヤドランカをモデルにしたと思われる物語もある。しかしいずれの作品にも震災もしくは被爆についての記述が出てくるので、連作として書かれたことはまちがいない。読者は読み進むにつれて、福島の事故とアメリカの原爆製造施設とチェルノブイリのキノコとコソボ紛争で使われた劣化ウラン弾と横須賀の原子力空母が連鎖してくるのを目の当たりにする。
被災者を主人公にした「波」以外は、評論やエッセイめいた部分とフィクションを巧みに組み合わせた書き方だ。いや「波」にも登場人物が『旧約聖書』や『白鯨』にまつわる話や、サハリンの資源開発と自然破壊について評論風に語る部分があるから、軸足が少しちがうだけかもしれない。その重層性がこの短編集の技術的なおもしろさであり、災害の体験を記憶に残すために選ばれた方法でもある。その視点と抑えた筆致が震災や被爆を他人事にしないという作者の決意と想像力の強さを感じさせる。

41umbmsm3ml_aa160_1
 佐々木幹郎の『東北を聴く 民謡の原点を訪ねて』(岩波新書)は、震災後に津軽三味線の二代目高橋竹山と共に東北の民謡をたずね歩いて書いた本だ。
 いまわれわれが放送や録音媒体を通じて聞く民謡は、練って形を決め、高度な訓練を受けた歌手がうたうものがほとんどだ。たとえばこの本の中にも「新相馬節」のうたい出しの「ハア~」は、四拍半でうたうことに決まっているというような話が紹介されている。民謡はそのように「伝統的に」保存され、もうあまり変化のしようがないものとしてわれわれの前にある、ように見える。
 しかし著者は旅の中で、外からもたらされた民謡がどのように土地固有のものに変容したかを知り、時代と共にどのように変化してきたかを確かめ、その事実を淡々と記していく。そんな記述の中に初代高橋竹山を1933年の昭和三陸沖地震の津波から救った村人の話や民間信仰の話がさりげなくはさまれる。
 東日本大震災を経た後、うたい手にとっても聞き手にとっても、東北民謡のいくつかは、それまでとはちがった意味を帯びざるを得なくなった。たとえばこれから先、復興が明るく語られる機会が増え、被災者の傷がいやされていったとしても、被爆して見捨てられた牛や馬のことを抜きにして「南部牛追唄」をうたったり聞いたりすることは、少なめに見ても一世代か二世代、実際はもっと長い間、難しいと思われる。
 「民謡というものの、その土地の風景にあわさったときの幻想性は底知れない」と著者は書いている。詩人は「新相馬節」の、遥か彼方は相馬の空かヨ、という歌詞を聞く被災者の気持ちに思いをはせる。きめの細かな文章のうるおいがこの本を忘れ難いものにしている。

|

« coba | Main | wabisabiland pop diary »